· 

【訃報】覚悟の最期 ― 母が89歳で永眠しました。


 去る5月29日深夜、母が89歳で永眠しました。

 母は末期癌でしたが、亡くなる前日にも面会者と談笑するなどそれなりにまだ元気な様子で、こんなに早く旅立つとは正直思っていませんでした。

 ◇  ◇  ◇

 母が体調不良を訴えたのは4月中旬のこと。食欲不振と倦怠感、動悸、それに右の胸部から腹部にかけての痛みを訴え、かりつけ医で血液検査などしてもらいました。

「特に異常ないですから元気を出してください」

 紹介状を書いてもうらうつもりが、かかりつけ医から励まされるという予想外の結果となりました。これには家族は戸惑い半ば安心半ばといったところでしたが、当の母は逆にガックリきたのか翌日からどんどん食が細っていきます。困りあぐねていろいろ手を尽くし、最終的に再度かかりつけ医に連れて行って今度こそやっと紹介状を書いてもらいました。

 その紹介状は、宛名もなければ診療科さえ記載のないもの。かかりつけ医からは、これを持って好きな病院へ行ってくださいと言われました。おそらく、所見もないのに紹介状を書くことは、医師として本意でなかったのだと推察します。

 行った先の病院の先生もはじめは困った様子でした。医者の前で凛として受け答えする母は、確かに「89歳の重病人」のイメージからほど遠いものがありました。家族も正直重病とは思ってもみませんでした。

 でも病院の先生は最後に「念のため腹部のCTを撮りましょう」と言ってくださいました。そして、そこで見たCT画像には素人目にもわかる薄黒い影が肝臓の3分の1を覆っていました。すぐに国立名古屋病院へ回され、その日のうちに末期癌と告げられて緊急入院となります。母が体調不良を訴えてから2週間近くが経過した、4月27日のことでした。

母の病室より。私が長く勤めた名古屋市役所が目の前に、新装オープンした中日ビルが左向こうに見える。
母の病室より。私が長く勤めた名古屋市役所が目の前に、新装オープンした中日ビルが左向こうに見える。

 翌日、病室で見た母の姿に私は言葉を失います。昨日までの母は、身の回りのことはなんとか独りででき、まだかろうじて「普通の生活」を送っていました。入院当日も、少しよそ行きの服を着て自分の足で歩いて私の車に乗り、病院へ向かう車中では車窓の風景に昔話に花が咲き、久しぶりの息子とのドライブをつかのま楽しんでいるかのようでした。

 その母が、病室のベッドに精も魂も尽き果てたように横たわっていました。点滴につながれ、傍らにポータブルトイレが置かれ、母はいきなり「寝たきり」になったのでした。

 さらに私を驚かせたのは、癌の告知を受けていない母が、すでに自分が癌であることを悟っていたことでした。そして、やっと自分が来るべき場所にたどり着いたこと、これで家族に余計な心配や迷惑をかけずに済むことを心の底から喜び、安心しきっているように私の目には映りました。

 後日、自宅の母の部屋のテーブルに、「延命治療不要」のメッセージがそっと残されていることに気づきました…。

 ◇  ◇  ◇

 5月7日。連休明けのこの日、病院のソーシャルワーカーのはからいもあって、自宅からすぐ近くの医療系老人ホームへの入所が即内定します。

 5月22日。母も家族も心待ちにしていた老人ホームへ移る日です。内定からこの日まで思わぬ時間がかかりましたが、老人ホームのスタッフの皆さんに暖かく迎えられ、私は内心これでしばらくは病状が落ち着くのではないか、そんな漠然とした期待を抱いていました。しかし、結局それは根拠のない幻想にすぎませんでした。

 病院では家族以外との面会を嫌がった母が、老人ホームでは親類に会いたいと言いました。すぐにあちこちに連絡を取り、その週末には何人もが面会に来てくださいました。面会者としばらくの談笑ののち、相手の手を握り、母は笑みを浮かべながらこう言うのでした。

「これでお別れよ。今までありがとうね」

「何言ってんのよ。また来るからね。元気でいてよ」

 そんな切ないような、微笑ましいようなやり取りが、幾人かと繰り返されました。面会者と談笑する母の姿は、昨日までよりずいぶん元気そうに見えました。みんなと会うことが励みとなって、少しは持ち直すかもしれない。そんな淡い期待が私の脳裏をかすめます。

 しかし、そんな私の思いをあざ笑うかのように、その日の夜から母の病状は急速に悪化します。いま思えば、きっとみんなに会えてほっとしたのでしょう。みんなに会えて、これでもう思い残すことはない、そう思ったに違いありません。

 5月29日。夜遅く、床に就こうとした私はスマホの着信に心臓が止まりそうになります。老人ホームからでした。たった15分足らずで駆け付けたのに、すでに息を引き取った後でした。あまりにあっけない、でも、あっぱれな母の最期でした。

 末期癌とわかってわずか1か月。老人ホームに移ってたった1週間。病状が悪化して3日目のことでした。

 ◇  ◇  ◇

 私が中学生か高校生のころ、母は私に言い聞かせるようによくこんな言葉を口にしました。

「人間はね、人に迷惑さえかけなければ、普段は好きなことを好きなようにやればいいの。いざという時の覚悟さえあれば、それでいいのよ」

  まさにこの言葉を体現するような、母の人生、そして母の最期でした。

生前、花が好きでガーデニングに精を出していた母のために、ささやかながら花いっぱいの生花祭壇を選びました。皆さんからもたくさんの素敵な花をいただき、花にうずもれるように母は眠っていました。
生前、花が好きでガーデニングに精を出していた母のために、ささやかながら花いっぱいの生花祭壇を選びました。皆さんからもたくさんの素敵な花をいただき、花にうずもれるように母は眠っていました。