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いまどきの子育て ― 体験不足と言われて


■ ヤンママの会話から

佐藤かよが行きつけだったという “カフェ。メルス”
佐藤かよが行きつけだったという “カフェ・メルス”

 モデルでタレントの佐藤かよが無名時代に行きつけだったというカフェが、家の近所にある。若い客でにぎわう店の片隅で、何だか自分も若返ったような気分になって一人で晩飯を食べていると、隣のテーブルに座るヤンママ二人の口から出た「アゲハチョウ」「モンシロチョウ」という言葉に、永遠の昆虫少年の耳はダンボになってしまうのであった。

ヤンママA:アゲハチョウは大っきいし、シマシマの模様が気持ち悪いけど、モンシロチョウなら平っ気。でも、あれって羽に粉がいっぱい付いてるから、触ると指先が粉だらけよね。

ヤンママB:へえー、そうなの?

ヤンママA:えっ、知らないの? 粉粉(こなこな)よ。それでね、息子が採ってきて虫かごに入れとくんだけど、すぐに死んじゃうのよね。

ヤンママB:えー、なんで?

ヤンママA:なんでって、そんなの死ぬに決まってんじゃん。それから(息子は)セミも好きだからよく採ってくるけど、ミンミンゼミ(※)は羽が透明だからお腹のとこが(透けて見えて)気持ち悪いのよ。アブラゼミなら(羽が)茶色だから平っ気。

※ 当地にミンミンゼミはいないので、クマゼミのことと思われる。

ヤンママB:子どものころ虫採りした?

ヤンママA:したした。自分で言うのもなんだけど、子どもってすごい残酷だから、セミの羽むしったりとか、平っ気でやった。

ヤンママB:ヤダー、気持ち悪いとか言って、やってんじゃん。

ヤンママA:子どものころは平っ気よ。いまはダメ。それから、アリの巣に水入れたりとか。「洪水だー」ってね。

ヤンママB:あっ、それ私もやった。コーラ入れた。

ヤンママA:ひどいー! 残酷うー。

ヤンママB:えっえー? 水もコーラも、いっしょじゃん。

ヤンママA:いっしょかあ? いっしょだなあ。ホント、子どもって残酷だよね。だから自分の子どもには、そういうの絶対やらせない。

 おいおい、散々盛り上がっといて、そういうオチかよ。自分だって子どものころ好奇心から虫に対していろいろ悪さして楽しんだというのに、自分の子どもにも好きなようにやらせてあげなさい!

 でも、ヤンママAの言っていることは、ある意味で筋が通っている。自分は悪さをしたけれど反省して、だから自分の子どもにはしっかりしつけをするという、彼女なりの真面目で前向きな考え方だ。それ自体を悪いと誰が言えよう。それを悪いと言われると、彼女は反発するか、混乱するか、何が良くて何が悪いのか分からなってしまうだろう。

 

■ 体験を通じて、子どもは自ら学び、育つ

 ただ言えることは、親が良かれと思って子どもに対してやっていることの多くは、親の価値観の押しつけである。自分の子ども時代を思い起こせば、親の価値観を押し付けられて(心の中で)反発した記憶がきっと誰にでもあるはずだ。しかし、反発したのは反抗期以降か反抗期が近くなってからのことで、それ以前の幼少期は親が言うことに対して子どもは従順で無批判である。 だから、あれはダメ、これはダメとこと細かに子どものやることを縛るのは、親はしつけのつもりでも、子どもの好奇心の芽を摘むことになるし、子どもの体験の機会を奪うことにもなる。

 子どもは親が知らずともいろいろ体験し、学び、成長していくのだから、体験の機会を奪うということは、とりもなおさず成長の機会を奪うということだ。体験を通じて子どもは自ら学び、考え、理解する。体験しないと、いくら親が口を酸っぱくして言っても、子どもは理由(わけ)も分からず従っているだけで本当は理解していない。だから親が思いもよらないようなことを子どもは考えていたりして、とんでもないことをやらかしたりする。

 虫をいじめるのが何の体験かとご批判の向きもあろうが、チョウは虫かごに入れておくとすぐに死んでしまう、セミは羽をむしると飛べなくなって暴れて死んでしまうということを、子どもは身をもって体験し学習するのだ。腹をヒクヒクさせながら「ギギギギッ・ギッ・ギ・・・・ギ」と苦しみもがいて死んでいくセミを見て、どこか後ろめたい気持ちが芽生える。このときになってやっと、可愛そうなことをしたかもしれないと気づく。―― そんなふうに大人が思い描くストーリー通りに子どもが学びとるかどうかはともかく、上記のヤンママ二人の会話からも、体験した者と体験していない者の違いがはっきりくっきり読み取れる。

 なにも虫をいじめなくても、いくらでも生き物に対する愛情を育んだり、命の大切さを学んだりする機会はあるかもしれない。しかし、過度の衛生思想で過敏になった潔癖症のいまどきの若い親が、汚いからダメ、気持ち悪いからダメ、触っちゃダメと、ただでさえ身の回りにわずかしか残っていない自然や生き物からさらに徹底的に子どもを遠ざけることにより、子どもの体験の機会は徹底的に奪われる。

 そうやって日常の体験の機会を徹底的に奪っておいて、取って付けたように夏休みの自然体験学習会に親子で参加する。自分自身がすでに体験不足世代のため尻込みする親を尻目に、子どもは目を輝かせて草むらに入って夢中で虫を追いかける。―― そんな子どもはまだましかもしれないが、そうでない子どもがいる。

 子どもは(大人もそうだけれど)、日ごろ見知らないものに対して興味を示さないことがある。周りの子どもにつられて草むらに入って「いい子」を演じているだけで、本当は楽しくなくて夢中になれない子がいるのだ。そもそも学習とは日常と結びついて初めて学習であって、日常と完全に切り離された自然体験学習なんて、親の自己満足かアリバイ作りに過ぎない。自然体験学習から帰った子どもは、何事もなかったかのように再び部屋に閉じこもってテレビゲームに夢中になる。その様子を見て、自分自身も体験不足世代の親は、「うちの子には適性がない」あるいは「うちの子にはアウトドアは向いていない」と考える。しかしそうではない。本来その年齢なら出来ているはずの下地が全くないために、学習効果が上がらなかっただけだ。小学生に大学の市民公開講座に参加させたが何も理解できなかった、というのと同じである。

 

■ 人間が、人間らしく育つために‥

 小さい子どもがいるというのに、タワーマンションに住みたがる親がいる。こういう時代で、こういう子育てがさらに進むと、そのうちマンションの上層階に住む子どもの中には、「アリなんて見たことないから知らない」「石ころなんか拾ったことないから、どれぐらいの重さか分からない」という宇宙人のような子どもが出現しかねない。というか、私が知らないだけで、すでに日本中にそういう子どもがいっぱいいるのかもしれない。

 子どもが小さいときぐらいは、親の欲求よりも子どもの育ちを何より大切にしてあげて欲しい。好奇心旺盛な幼児期に自然にふれること、自由に体験させることを、もっともっと大切にして欲しい。二人のヤンママの会話を聞きしながら、若者たちの行く末を案じ、ひとり寂しく晩飯を喰らう夏の終わりの夜でした・・とさ。