初めて行ったハウジングセンターは、立派なモデルハウスが建ち並んでいて、どれも敷居が高くて中に入るのがためらわれた。でも、さすがに園内を散歩しただけで帰るわけにもいかないので、恐る恐る入ってみる。
すぐにいんぎんな営業マンが近寄ってきて、あれこれ矢継ぎ早に聞いてくるが、何ひとつまともに受け答えができない。こちとらそれまで50年近い人生の中で家を建てることなんて考えたこともなく、こと家に関して「筋金入りの無知」だった。これでは営業マンと話が噛み合うはずもなく、「いったいこいつは何しに来たんだ状態」に陥って、やっとこさ話のつじつまだけ合わせて逃げるようにして外へ出た。何だがひどく場違いな所へ来てしまった気がした。こういうとき女は得である。男のケツだけ叩いて、「あなた、何とかしてよ」という態度である。
ここで、建ち並ぶモデルハウスの中で少しだけ庶民的な雰囲気を感じさせる家を見つけて、ちょっと入ってみようかという気になった。出てきた若い営業マンは気さくな感じで、さっきよりはだいぶ喋りやすい。矢継ぎ早に質問を浴びせられることもなく、適当に言葉を濁していると空気を読んでくれて、とりあえずモデルハウスの中を説明しながら案内してくれた。そしてその後で彼はこう言った。この時点で、私が何も知らないことはすでにバレバレだった。
「もしお時間がありましたら、せっかくの今日の一日を無駄にしないためにも、家づくりの第一歩からご説明いたしますが、いかがですか?」
有り難い。顧客のニーズをすばやく読み取る優れた営業マンとは彼のこと。モデルハウスの部屋の一角に商談用のテーブルと椅子があり、テーブルの上にはパソコンが置かれていた。
ふたことみことのやり取りの後で、彼はいきなりこう言い放った。
「私がこういうことを申し上げるのも何ですが、本気で家づくりを考えるのならハウジングセンターなんかへ来ちゃダメです」
えっ、いま何て言ったの? そんなこと言っちゃっていいの? でも、こういうの大好きなので、思わず身を乗り出す。
「今いらっしゃるこのモデルハウス、いくらだと思いますか?」
まるで見当がつかない。
「1億円です」
えェッー! な、なんと。さすがに言葉を失う。
「このハウジングセンターに20数棟建っている中で、1億円はそれでもまだ最低クラスです。セ○スイさんの○ャーウッドなんか○億円ぐらいらしい」
だんだんドキドキしてきた。
「カローラクラスの車を買おうという方が、レクサスのショールームへ行って何か意味がありますか? レクサスを見ればいいに決まっています。商品には値段というものがあります。値段を度外視して見たところで、何の意味もありません」
なるほど、こいつは分かりやすい。でも、それじゃどうすればいいの?
「建売りを見に行ってください。建売りは本物、現物の商品ですから。ハウジングセンターのモデルハウスのような夢物語ではない、本物を実際にたくさんご覧になって、まずは見る目を養ってください」
ということで、次に建売りの見方について指南してくれた。
「ただし、建売りは本物とは言っても、レクサスと同じで値段を度外視して見ても意味はありません。しかも建売りには底地が付いていますから、同じ5,000万円の物件でも土地が3,000万円なら建物は2,000万円だし、土地が2,000万円なら建物は3,000万円。2,000万円の家より3,000万円の家の方がいいに決まってますから、そこをちゃんと確認したうえで家を見てください」
というわけで、次に地価の調べ方を教えてくれた。実際にインターネットで検索し、付近の路線価を調べてそこから底地の坪単価を知る方法を教えてくれた。さらには行政のサイトの都市計画のページで用途地域について教わったときには、さすがに私は自治体職員なんですとは口が裂けても言えなかった。
次に、業界用アプリで自宅周辺の詳細な地図が表示され、用途地域や防火地域、敷地面積、建ぺい率などがたちどころに分かる。
「羨ましいですね。千種区内でこんなに広い敷地に家が建てられるなんて」
いや、実は借地なんですよと話したら、地代はいくらか聞かれ、それはもったいない、これから向こう30年間払い続ければ○千万円になり、それだけあれば郊外へ行けば十分土地が買えるという話になった。子どもがいないので土地を買っても仕方がないと答えると、土地付きなら将来家を売り払って老人ホームへ入ることもできるが、借地の上に建っている家は売ることもできない。売ることのできない家は担保にもならないので、ローンも組めないと言う。えっ、ローンが組めないってどういうこと? 売れないことは承知していたが、ローンが組めないとは思ってもみなかったので慌てた。
「もし、現地建替えでしたら、費用は全額キャッシュでお支払いいただく必要があります」
なんと。唖然。「家を建てる=住宅ローンを組む」と思っていたので、これには驚いた。親が建てた家に生まれ育って50年近く、何も分かっていない自分にこのときやっと気づいた。私の場合、現金がなければ家は建てられないんだ。そして、家一軒がいったいいくらで建つのか、この時点でまるで分かっていなかった。
「ご予算はおいくらぐらいですか?」
追い討ちをかけるようなこの質問に、いきなり固まった。思わず雅恵と顔を見合わせる。
私 「貯金って、いくらあるんだっけ」
雅恵「そんなの知らないわよ」
そこで突き放すなって。それにしても、いい歳こいて、こんなおバカ夫婦にまともに取り合ってくれた営業マンさんには、ただただ感謝である。
そして彼はこうも言った。
「家なんかのために、貯金を全部はたいちゃダメです。家づくりで夢を見る前に、最初に1千万円は必ず横へよけといてください。1千万円に特に根拠はありません。でも、ご主人の年齢ならいつ何が起こっても不思議じゃない。家が完成した翌月に癌が見つかるかもしれない。だから、悪いこと言いませんから1千万円は横へよけといてください」
この時、私は47歳の誕生日を目前にしていた。私に人生設計のいろはを教えてくれた彼は、まだ20代の若者だった。
(つづく)
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