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元祖? 私の「新貧乏物語」

 しばらく前から、中日新聞に「新貧乏物語」という連載記事が不定期で掲載されている。格差社会と言われ、子どもの貧困が取りざたされ、世界に冠たる経済大国となったはずのこの国に、新たなる貧困の問題が大きな社会問題として横たわっている。

 今から40年近く前、家庭の経済的事情で大学進学を断念せざるを得なかった私にとって「新貧乏物語」は他人事とは思えず、毎回食い入るように読んでいる。私の場合は、幸いにしてなんとか貧困から抜け出すことができた。しかし、それは今にして思えば薄氷を踏む脱出劇だったかもしれない。そして、時代はあの頃より明らかにもっと過酷になっている。そのことを、中日新聞の「新貧乏物語」は、ひしひしと語りかけてくる。以下は、私の、その昔の「新貧乏物語」である。

 

■貧困からの脱出 ー 若き日の決断

 私の大学受験、それは20歳の春に予備校の門をくぐるところから始まる。高校を卒業後、家庭の経済的事情で大学進学をいったんは断念した私だったが、2年間勤めた会社を辞め、きっぱり諦めたはずの大学を目指して予備校へ通い始めたのだった。 すっかり板についたサラリーマン生活に別れを告げ、たった2年で遠い昔のことのように感じられた学業の道に戻る決心をしたのは、一人息子を大学へやれなかった母の無念を知ったから、というばかりが理由ではなかった。このまま社会の中に埋没していってしまうような、そんな焦りにも似た感情が、若い私の心のどこかにあった。

 しかし、大学進学を目指すといっても、いまさら親からの経済的援助など望むべくもない。2年間の会社勤めで蓄えたわずかばかりの貯金と、あとは奨学金とアルバイトで食いつなぐという悲壮な覚悟だった。そんな事情から、自宅から通えて少しでも学費の安い地元の国公立大へ、石にかじりついてでも入りたいと思った。

 しかし、悲しいかな当時は今のように国公立大を複数受験することのできない仕組みだったため、どうしても一発勝負を強いられることになる。とはいえ、ただでさえ他人より3年も遅れてしまったのでこれ以上遅れたくない事情もあり、そこで当然のこと、すべり止めとして私大を3校受験した。

 国立大の二次試験も終わり、試験結果を待つだけとなった3月のある日のことだった。首尾よく3校とも合格した私大の中から、学費の一番安いR大の入学金を納付しておこうと入学書類に目を通していた私は、自分が取り返しのつかない大きな思い違いを犯していたことに気づき、一瞬にして血の気を失って凍りついた。当時、私の中の常識では、期日までに入学金を納めさえすれば当然に入学の権利を確保できるものと思い込んでいた。しかし事実は、入学金の他に1年分の授業料と施設費などの名目の諸雑費を合わせた額を初年度納付金として納める必要があった。そして、当然のこと、納付期日は国立大の合格発表よりも前に設定されていた。

 私大の初年度納付金、それがいくらだったか正確には覚えていない。国立大の入学金が10万円で授業料が年20万円ほどだった時代のこと、私大の中でも比較的学費の安い大学を選んで受けていたので、おそらくそれは50万円前後の額だったと思う。当時、高卒で就職した私の初任給が6万8千円。2年間働いて貯めた金といっても、それこそすずめの涙ほどのもの。これから始まる4年間の大学生活を考えるとき、入学しないかもしれない大学のために、今ここでなけなしの貯金をはたいてそんな大金を支払うことは、目の前が真っ暗になるような思いだった。行く末暗澹たるものがあった。2年間の社会人生活で世間の風の冷たさを思い知ったつもりの私だったが、受験生の弱みにつけ込み苦学生から大金をはぎ取るようなこの国の社会の仕組みと己の無知に、怒りと悲しみと悔しさで、布団をひっかぶって泣きはらした。

 それから数日後、私は吹っ切れたように、ある決断をしていた。私大の初年度納付金を一切納めないという決断である。もちろん国立大が受かっているという保証などどこにもない。もしすべっていたら、会社を辞めて1年浪人して他人より3年も遅れて受験して、とどのつまりは行き場を失う事態となる。今のようにフリーターなどという言葉さえなかった時代のこと。そんなことになったら、嘆き悲しむ母の姿を想像するだけで断腸の思いだ。私のことを心配し応援してくれた周囲の人たちにも申し開きができない。誰よりもそんなことを分かっていながら、私はこの荒唐無稽な決断を、誰にも相談することなく独りで決めてしまった。もちろん母にも内緒だった。

 そのときの心情を、今となっては私自身正確に語ることはできない。それは決して自暴自棄のようなものではなかったと思いたい。一度外れてしまったレールの上に、もう戻らなくても構わないという柔軟な価値観と、しかしその一方で、若かりし日の私のかたくななまでに精一杯の、社会に対する反発があったことも間違いない。

 祈るような気持ちで合格発表の日を待った。結果は、幸いにして合格。そして何事もなかったかのように地元の国立大に入学し、このことは今に至るまで母には話さずじまいでいる。

 

 あの時、もし不合格だったら・・。そこから、私のどん底の転落人生が始まっていたかもしれない。少なくとも、私の「新貧乏物語」の第二章が続いていたことだけは想像に難くない。 

 私の学生時代といえば、我が国はちょうどバブル経済のただ中にあった。「一億総中流社会」という言葉があり、多くの人はまだ終身雇用制を当然のように受け止めていた。私が大学4年の夏に労働者派遣法が成立し、これが蟻の一穴となり、ここをターニングポイントとして日本の社会は大きく変貌していく。競争社会が当たり前となり、競争社会は当然の帰結として格差社会を生みだした。

 我が国の高等教育は、学費は高く奨学金制度は脆弱で、世界にも類を見ない「高負担・低支援」の構造と言われている。金持ちの子どもは英才教育を受け、貧しい家庭の子どもは大学や高校へ進むことさえままならないとしたら、教育を通じて貧富の差が拡大再生産される。そんな封建社会のような社会構造が、今の、この国の現実である。

 人は大人になっても成長を続けるように、人間社会は少しずつでも発展していくものと信じている。苦学生などという言葉が死語になりかけていたころに苦学生をしていた私にとって、私のような苦学生は、私の次の世代の時には遠い昔話になっているものと信じて疑わなかった。