ESDユネスコ世界会議が、11月10日からの3日間、名古屋国際会議場で開催される。
ESDとは、Education for Sustainable Development の略で、地下鉄のポスターにはこう書いてあった
「持続可能な開発のための教育」
―― 何のことかサッパリ分からん。
ESDユネスコ世界会議あいち・なごや支援実行委員会の公式ウェブサイトを見ると、こう書いてある。
「持続可能な社会づくりの担い手を育む教育」
―― これなら何だか少し分かった気がする。
いずれにしても、「持続可能な社会」を世界会議のテーマとしなければならないほど、いま我々が生きているこの社会は「持続可能でない」ということだ。
子どものころ、憧れのノコギリクワガタを自宅近くの雑木林で初めて採集し、得意満面で飼っていた。どうしてこいつは、こんなにカッコイイんだろう。大きく湾曲した大アゴと赤茶色の光沢を放つスポーツカーのようなボディは、少年の心を虜にしてやまなかった。
ところが、あるとき学校の図書館で読んだ本かなにかに、次のような意味のことが書かれていた。
「クワガタの大アゴは進化の過程で大きくなりすぎて、いまではクワガタが生きていくうえでむしろ不都合で邪魔になってしまった。大きくなりすぎた大アゴによって、クワガタは絶滅へと向かうだろう。牙が大きくなりすぎたマンモスと同じように」
ウソだ! そんなの信じない。進化というのは、強くて有利なものが生き残ること(自然淘汰)によって進化するのだから、進化によって不都合な姿形になってしまったなんておかしい。だいいち、こんなにカッコ良くて大好きなノコギリクワガタが、それじゃあ、まるでマヌケみたいだ。ノコギリクワガタを悪く言うヤツは、ダーウィンであろうと誰であろうと許さん!
少年の心はいたく傷ついた。そして動揺した。しかし、本に書いてあることはみんな正しいと思うとっても素直な子だったので(それってフツーだよ)、いつの間にか、クワガタってなんて愚かなんだろうと嘆かわしく思うようになっていた。それどころか、飼っていたスズムシが餌の茄子にかける鰹節を少し切らすとすぐに共食いしてしまったり、メスのカマキリが交尾しようと近づいたオスを食べてしまったり、昆虫の残虐悪態ぶりを知れば知るほど、昆虫が、餌と仲間の区別もつかない愚か者のようにいつしか思えるようになっていた。そう思うとなんだか悔しくてたまらなかった。
しかし、これは言うまでもなく、人間のモノサシで昆虫を見ている大人たちの影響だった。
小学校から中学校へ上がるころ、思春期になると私の物事に対する見方は一変する。思春期に大人に反発するのは健全な証拠だが、私の場合、大人への反発と虫好きが有機的に絡み合って化学反応を起こし、大人への反発が高じて人間嫌いに昇華しかかっていた。そして、知らず知らずのうちに昆虫のモノサシで人間を批判的に見るようになっていた。
昆虫のモノサシで人間を見ると、人間ほど愚かな生き物はほかにいない。
人間のモノサシでは残虐に見えた昆虫たちの行動も、すべては子孫繁栄のためという美しい目的意識で貫かれていた。生き物にとっての最大の命題(テーゼ)は、種の保存であることは疑いない。なのに人間ときたら、自らの欲望を満たすために子孫に受け継ぐべき地球規模の大切な財産をむやみに浪費し、代わって取り返しのつかない不可逆的な負の遺産を膨大に残して平気でいられる。生き物として、これほど矛盾に満ちた行動をとる生き物は、きっとほかにいない。昆虫のモノサシで見たとき、これを愚かと呼ばずしてなんと呼ぼう。人間がどんなに反論しようとも、人間のしていることは「アリとキリギリス」の「キリギリス」そのものである。
「どうやって直すのかわからないものを、壊し続けるのはもうやめてください」
12歳の少女セヴァン・スズキの伝説のスピーチに世界中が喝采を送ってから20年以上が過ぎても、いまだ人間は壊し続けている。彼女のスピーチが琴線に触れない大人は、そう多くはない。なのに、いまだ人間は壊し続けている。
なぜ、人間は壊し続けるのか。
それは、人間の社会が壊し続ける仕組みになっているからだ。
どうして、その仕組みを変えられないのか。
それは、変えようと努力する人が少ないからだ。
どうして、変えようと努力しないのか。
それは、自分の胸に手を当てて聞いてみることだ。
自分の胸に手を当てて聞いてみても、答えは簡単には見つからない。それは、社会の仕組みを変えることが、そんなに簡単ではないことを意味する。
進化の結果自らを絶滅に向かわせていると人間に決めつけられたクワガタやマンモスよりも、きっと人間自身はもっとそれに近い不思議な生き物だ。
社会の仕組みを変えるには、誰かではなくて、みんなの意識が変わらなければならない。みんなの意識が変わるためには、少女のカリスマ的スピーチでも変わらないのなら、あとは地道な教育しかないだろう。ということで、ESD(持続可能な社会づくりのための教育)なのだと思う。
自分たちが「キリギリス」であることに、一刻も早く一人ひとりが気づくことだ。
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